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ギュンター・ペルトナー教授(ウィーン大学)講演会
【報告】〈見えること〉の奇跡
中世における〈美しさ〉についての思索

2013年11月9日(土)
14:30-17:30
東京大学 東洋文化研究所 第一会議室
(地図: http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/access/index.html)
言語|ドイツ語語(日本語資料配布・通訳あり)
入場無料・事前登録不要
司会| 馬場智一(東京大学・CPAG)

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ギュンター・ペルトナー教授 講演会 「〈見えること〉の奇跡 - 中世における〈美しさ〉についての思索」
(Guenther Poeltner, Vom Wunder der Sichtbarkeit - zum Gedanken des Schoenen im Mittelalter)


ギュンター・ペルトナー教授

2013年11月9日土曜日、東京大学東洋文化研究所にて、ウィーン大学名誉教授のギュンター・ペルトナー氏による講演「〈見えること〉の奇跡:中世における〈美しさ〉について」が行われた。講演はドイツ語により行われ、ドイツ語原稿と日本語訳が配布された。司会および質疑応答の際の通訳(日独・独日)は、本レポート報告者の馬場が行った。

ペルトナー氏の今回の訪日は、氏の著作であるPhilosophische Aesthetik(『哲学的美学』Kohlhammer, 2007)に基づく二つの講演を目的としている。本書は、美に関する哲学的考察の歴史についての入門書という体裁をとりつつも、この歴史が近代に入ってから被った、美学化(感覚化であり主観化でもある)に対してはっきりと距離をとり、美しさを近代的な主観性における感覚的経験という枠組みから解放し、ハイデガーに依拠しつつ美についての思考を存在論へと取り戻そうと試みている。

ちなみに11月11日には一橋大学で『〈美しさ〉を〈美学すること〉の問題』と題された講演がなされた。この講演が美学化の問題に焦点をあてたものであっただとすると、東洋文化研究所で行われた講演は、中世における〈美しさ〉をテーマにしたもので、いわばヨーロッパにおいて〈美しさ〉をめぐる思考がいまだ「美学化」されていない古層へとさかのぼるものである。

思想を代表する哲学者として、ペルトナー教授は主にトマス・アクィナスを参照する。美しさに関するトマスの命題は伝統的な動向に応じて二つある。一つは「しかるべき釣り合いあるいは調和」(debita proportion sive consonantia)であり、もう一つは「明瞭性」(claritas)である。「しかるべき釣合あるいは調和」や「明瞭性」が見出だされるところには、美もまた見出だされるのである。

一見したところ、本講演はわれわれが生きる時代とはもはや無縁になった中世の思考を掘り返す歴史的研究に思われるかもしれない。しかし、講演の意図はむしろ、中世の中に、美学化から解放された現代的な美学のあり方、すなわち存在論的な美学の可能性を見出すことにある。

古代からの諸潮流を統合し、中世「しかるべき釣り合い」は、事例に応じて様々なものが有り得る。人間の四肢における釣り合い、素材と造形の釣り合い、さらには、人間的な交際や演説にもそれ固有のしかるべき釣り合いがあるとされる。「明瞭性」との関連で重要な釣り合いは、知覚と、知覚されるものとの釣り合いである。ある知覚されるべきものが「よく」知覚されるとき、そこには知覚されるものが知覚できることに対する驚きが生じる。それが講演題目にある「見えることの奇跡(Wunder)」である。奇跡と訳されたドイツ語Wunderは、この脈略では「驚き」と訳してもよいだろう。この驚きにおいては、見られるものが現れていると同時に、「見えること」それ自体が露になっている。「見られているもの」が「見えること」と共に見えていること、そこに美しさSchoenheitがある。ペルトナー教授の議論は、「よい」という言葉と同様に「美しい」(schoen)という言葉のもつ多義性にも依拠しているのであるが、ここでの美しさは、見えるという事実の「素晴らしさ」といってもよいだろう。

この意味での「見えること」が美しさについての二つ目の命題、「明瞭さ」の意味することである。明瞭さとは単に対象がはっきりと見えるということではなく、対象が見えるということそれ自体が現れている事態を指すのだ。「しかるべき釣合」は突き詰めてゆくとこのように「明瞭さ」へと合流する。むしろ二つの命題は存在論的な美しさ、すなわち「見えることの奇跡」の二つの側面であると言えよう。トマス自身が「美しさは(…)明瞭性としかるべき釣合の中に存在する」と言う所以である。「pulchritudo <…> consistit in quadam claritate et debita proportione」 (STh II-II, 180, 2 ad 3).

見るという行為はしかし、なにか純粋に感覚的な行為なのではない。それは究極的には知性(intellectus)、認識(intelligere)に基づく。かといって知性や認識は、なにか自然科学的な知識に基礎付けられた「科学的認識」を意味しているわけではない。トマスにおいて知性が最初に理解するのはあくまで存在者である。存在の理解があらゆる認識の可能性を開いているである。存在理解があらゆる個別的な存在者の認識の可能性を開くその仕方は、光に比される。ある個別的な存在者の認識が経験されるとき、その認識を可能にしている存在理解そのものは、つねにその認識と「共に」あるとはいえ、それ自体が経験の対象となる訳ではない。光もまた、ある存在者を見ることを可能にするし、ある物を見ているとき、われわれはつねに光もまた「共に」見ているのだが、光そのものを見ている訳ではない。光や存在理解という、「見えること」そのものを可能にしているものそれ自体が露になること、これがまさしく存在論的な美しさなのである。中世において光が賛美されるのは、自然科学的な知識を欠いた無邪気な詩的感情によるのではなく、むしろこうした存在論的な理解と関連しているのだが、中世においては、わざわざそのことを指摘する契機がなかったのである。

講演に際してはドイツ語原稿も配布されたのだが、一語一語を極めてゆっくりと明瞭に発音されているのが印象に残った。ペルトナー教授は、外国語話者と話す際には、理解しやすいようにできるだけゆっくりと話すように配慮されている。仮に早口で話しても理解できなければ、会話する意味がないからだ。一見当たり前のような事実だが、経験上、誰もが実践できるモットーでは意外とない。原稿に書かれた言葉もまた、一語一語が入念に選び取られた実に無駄のない文章であり、長年の思考の結晶のような文章であった。対話者にとっての外国語を通じて理解しあうことの「素晴らしさ」を深く理解されているからこそ、そのような実践が可能になるのではないだろうか。

講演の後は、会場との質疑応答が行われた。ウィーン大学の美術史学派とペルトナー教授の哲学的思索との間にある、ある種の類似性についての質問や、美の主観化という歴史的な見立てを検証するための立ち入った質問、さらには「釣り合い」の思考、すなわち存在の類比(analogia proportionalitatis)とプラトン的な融即(metexis)がどのようにトマスにおいて思考されているかについての質問など、多岐に渡り、予定時間を大幅に越えて講演会は盛会のうちに終了した。

講演の中でも触れられていたが、美しさは今日、単なる見られるものの次元へと資本主義的な商品化によって囲い込まれている。しかしこの美しさを、存在することの「素晴らしさ」に対する驚きへといかに回復するかは哲学にとって喫緊の課題ではないだろうか。この課題は、グローバル化する世界において、人間という存在が至る所でその醜悪な姿を曝している今日だからこそ、より差し迫った課題として私たちに等しく迫っているのではないだろうか。

*なお、本報告で言及したペルトナー教授の著作、Philosophische Aesthetikは来年3月頃、『哲学としての美学―〈美しい〉とはどういうことか』(渋谷治美監訳、晃洋書房)として刊行予定である。講演に関心を持たれた方はご参照頂きたい。

報告:馬場智一(CPAG)