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国際会議
情動、政治、精神分析 Affect, Politics, Psychoanalysis

2013年6月21-23日
台湾大学文學院演講廳

レポート

国際会議『情動、政治、精神分析 Affect, Politics, Psychoanalysis』(http://liberal.ntu.edu.tw/psychoanalysis/default.html)は、2013年6月21日から23日にかけて、国立台湾大学文學院演講廳において開催された。

国立台湾大学外国語文学系主催、行政院国家科学委員会・教育部の後援で開催された今回の会議は、2008年に行われた国際会議『Lacan in Context: Psychoanalysis in East Asia』(http://liberal.ntu.edu.tw/psychoanalysis/default.html)に続く第二回目の会議と位置づけられている。駒場では第二期UTCPの活動を通じてなじみの深いCharles Shepherdson 教授(ニューヨーク州立大学オルバニー校)やChao-yang Liao教授(国立台湾大学)が中心となって企画されているシリーズで、東アジアにおける精神分析と人文科学の協働の推進を目指し、台湾以外からも中国、韓国、日本、また米国、英国からもさまざまな分野の研究者が集まり連日濃密な議論が展開された。

以下に三日間にわたる講演・発表の一端を紹介しよう。初日の基調講演 ” Strangers, Analysts, and Literary Critics: On the “Unhappy” Marriage of Psychoanalysis and Ethnology ”を行ったのはGregg Lambert 教授(シラキュース大学)。フーコーが『言葉と物』で指摘した精神分析と民族学の位置の収斂の背景に、外部的な主体が誘発する語りという共通の構造を指摘した上で、それらの文学との関係をGabriele Schwab の著書 Imaginary Ethnographiesを参照しながら論ずるもので、今日の人文学を規定するエピステーメーの変動をも視野に収めた、大きな射程を持った講演だった。

二日目の基調講演 ” Biopolitics Of Blood and Immortality: From Tribes to Commodity Fetishism ” の Kiarina Kordela 教授(マカレスター大学)は、精神分析的観点からの生政治の再定義によって、部族社会から現代の商品経済にいたる歴史を見通す新しい観点を提示しようとする。レヴィ=ストロースと柄谷を引きつつ近親相姦の禁止を血脈の自己言及的関係の禁止と捉え直し、こうした自己言及的関係がラカンの問題にする実体としての享楽 substance-jouissanceの社会的な実現形態にあたると指摘したKordela 教授は、その生政治的な性格を強調した上で、こうした自己言及性とその禁止という契機がある種の定数として、歴史の各段階で様々な形をとって現れるとする。これは生政治の分野へ精神分析がもたらしうる重要な視点の一つとして、更なる展開の可能性を感じさせた。

三日目の全体講演では酒井直樹教授(コーネル大学)が、欧米とアジアのパワーバランスの変化と米国のアカデミズムにおける(非欧米地域)地域研究の地位、およびそこにディシプリンの区分や「理論」という形でなお残存する欧米中心主義の問題を論じる一方で、最後の基調講演 となる新宮一成教授(京都大学)の ” Affect, Symbol and Structure “ は、臨床家の立場から政治との直接的な関連づけには慎重な態度をとりつつも、フロイトの『夢解釈』の情動をめぐる章のうちに、当時の戦争およびそれによって脅かされる家/故郷と同一性をめぐる不安の共鳴を聞き取り、そこに情動と政治の交錯する地点を指摘した。情動はわれわれの同一性を規定する場所と関係を持つことによって政治的な含意を持つが、しかしそれ自体はむしろ由来の知れない、名前を持たない、「無気味な」ものとして現れてくる。こうした情動の矛盾した性格を、新宮教授は文楽『冥途の飛脚』の精神分析的解釈を通じて説得的に提示した。

全体としては、会議の総題に含まれる「情動」「政治」「精神分析」のうち二つを主たる参照先として展開される議論が多かった印象があったが、そのためかえって個々の発表を聞きながら、たえず不在のもう一つの極を考えるよう促される結果になっていたように思う。そしてその手がかりは、しばしば他の発表から得ることができた。私の発表 ” Figures of Closure: Affect and its Articulation in Psychoanalysis ” に関して言えば、精神分析が情動のうち「不安」を特権化していることを確認した上で、フロイト=ラカンによる「不安」への構造論的なアプローチが、一種の反復的分離のプロセス、すなわち自分の居場所から離れることを余儀なくされた主体が別な仕方でその居場所を構築し、さらにそこから離れることを余儀なくされ…というプロセスを「不安」の背後に想定していることを示し、さらにそのプロセスの中で或る独特の仕方で生起する「閉鎖」との関わりで成立する一般的な「場所」を構想する必要性を強調するという主旨のものであったが、発表中で十分に議論できなかったその政治的な含意については、特にKordela、新宮の両氏による発表を聞くなかで貴重な示唆を得ることができたように思う。

タイトルにこそ明示されていないものの、趣旨説明文などでも述べられていたとおり、今年の会議でも「(東)アジア」は中心的なテーマとなっていた。ただ今回特徴的だったのは、西欧的な学問の枠組と「アジア」のそれ自体「政治的」な関係を問題化する姿勢が明確に打ち出されていた点で、これは冒頭のLambert 教授による講演および三日目の酒井教授の講演にはっきりと現れていたといえる。Lambert 教授によれば北米で1980年代にはじまったという、ポストコロニアルな議論の場面におけるヨーロッパ的な知的遺産の「相続放棄」ないしヨーロッパと他文化の「離婚手続」。この観点からすれば、アジアに固有の歴史的、政治的、文化的事象を既成のディシプリンが提供してくれる出来合いの解読格子を通して語れば足りるという段階はとうの昔に乗り越えられていてしかるべきだろうが、それでは他にどのような道があり得るかという問いに答えるのは依然として難しい。ただそこで精神分析が何かできるとすれば、その貢献はおそらく精神分析の中で「理論」が占めている独特の地位と関係があるにちがいない。そんな予感を抱いた学会であった。

報告:原和之(CPAG)