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京都ユダヤ思想学会第六回学術大会研究発表
『全体性と無限』における無限判断

2013年6月22日(土)
同志社大学

京都ユダヤ思想学会HP

レポート

6月22日、京都ユダヤ思想学会において「『全体性と無限』における無限判断」と題する発表をしてきた。先日本HPにアップした日本哲学会での発表「ユダヤ哲学の方法論としての無限判断」では、ジャコブ・ゴルダンの博士論文に基づいて、「ユダヤ哲学」の論理としての「無限判断」の骨格を示すに留めた。

無限判断が「ユダヤ哲学」の方法であるとするならば、他のユダヤ系哲学者にも同様の論理が見出だされなければならない。「ユダヤ哲学」という名称はしかし(既に前報告でも述べたように)、あらゆる「ユダヤ系」の哲学者に適用可能なものとして使用しているのではない。ゴルダンの見立てではマイモニデスとヘルマン・コーヘンの哲学がこの論理をそれぞれの仕方で体現している。報告者は元々レヴィナスの哲学を研究してきたが、無限判断はレヴィナスやさらにはローゼンツヴァイクにも見出だせるのではないかと考えている。今回の発表では、この論理をレヴィナスの第一の主著『全体性と無限』のなかに見出だそうという試みである。

無限判断の論理そのものに関する前回の報告では、ヘーゲル的な体系の弁証法とコーヘン的な根源の弁証法の根源的差異について、ゴルダンの所論に沿って触れておいた。コーヘンの無限判断は、全体性の哲学がその外部に前提にせざるを得ない他性を、「?ではない」という否定の道を通じて指し示すのであった。レヴィナスがしばしば表明するヘーゲル的な全体性への根本的な異議を想起するなら、全体性の自閉性を堀崩す無限判断の論理をレヴィナスの哲学の中に探すのは、一見容易いように思われる。しかし、それが具体的に彼のどの議論のなかに息づいているのかを探るのはそれほど容易ではない。

コーヘンにおいて認識論的に提示された無限判断の論理は、ここでは実存論的な形態に変形されて、全体性の外部にある無限の他性を指し示している。ユダヤ哲学における無限性は、「?ではない」を無際限に繰り返すいわば可能的無限に相当する。レヴィナスにおいて、この可能的無限に相当するのが無限化(infinition)の概念である。

この箇所でレヴィナスは、これまで彼が取り組んできたイリヤからイポスターズへのプロセスを再び論じつつ、他者の迎接をイポスターズつまり主体の成立の契機として挙げている。他者の迎接は、この箇所に限って言えば子供の到来として構想されている。私自らが投企しうる時間を超える「子」との関係は「創造」と呼ばれ、ここで私は死を含んだ有限の時間ではなく、無際限に訪れ得る他者の時間と関係している。他者の時間が無限に(無際限に)到来することがここでの無限化の意味である。現存在的な有限の時間に対する根本的なアンチテーゼは言うまでもなく、ここには創造を存在論的に解釈する「キリスト教的方向性」とは別の、存在の彼方を指し示さんとする「ユダヤ的方向性」の特徴がはっきりと示されている。さらにいうならば、無限化による全体性の克服はレヴィナスが30年代から取り組んだ問題だった。

彼が1934年に発表した『ヒトラー主義哲学についての若干の省察』では、人間の身体的存在という現事実性を民族の血の担い手へと還元するナチズムの分析がなされていた。身体として存在するという有限性を、全体性に溶解する契機として利用するイデオロギーを哲学的に分析したのち、レヴィナスは有限性を超えながらも全体主義的な社会性を構築しない実存の在り方を追及していたのであり、その回答がようやくここに示されているといえよう。無限化とは、有限性を超えながら全体性を構築することのない、社会性の源である。他者の無際限の到来は、「子」の「いまだない」という時間性に対応するが、この潜在的時間は、コーヘンの無限判断におけるメーオン(~ではない)に相当する。メーオンの論理の実存論的変形が子の到来である。

レヴィナス自身はコーヘンの哲学を認識論に基づいたものとして、距離をとっており、またコーヘンのテクストそのものを深く読んだとは思えないが、ハイデガーを批判的に経由した実存論的分析がここでは確かにメ―オンの論理と結合している。

『全体性と無限』は全体性に抗して主観性を擁護しつつ、主観性そのものが構成する全体性を、他者性との関係から解体するというもくろみをもっている。全体性の論理の代表者の一人がヘーゲルであるわけだが、レヴィナスがゴルダンにささげた小文では、ゴルダンによるヘーゲルとコーヘンの対立が取り上げられていた。全体性を打ち破る根源の弁証法(コーヘン)はゴルダンを経由してレヴィナスにも生きているといえよう。

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今回の発表は準備不足もあり、細部の歴史的論証についてフロアからご批判を頂きつつ、研究の方向性に関わる助言も同時に頂戴した。発表では、西洋哲学でいう可能的無限と現実的無限の区別を導入し、コーヘンのメーオン、レヴィナスの無限化を可能的無限の一種とみなし、これを全体性に抗する論理として取り上げた。ヘーゲルでは可能的無限が悪無限とみなされるのに対し、ユダヤ哲学では可能的無限がむしろ復権を果たすという主張をそこに込めたのである。しかし、そこにはどうしても西洋哲学の文脈からユダヤ哲学を見るというバイアスがかかる。ゴルダン流のユダヤ哲学の系譜はマイモニデスから始まるわけだが、マイモニデスの思想は(アリストテレス受容はもちろんありつつも)当時のイスラム世界の文脈のなかで展開していた。マイモニデス自身が「無限」をどのようにとらえたのかということを当時の文脈のなかで再構成して初めてこうしたバイアスの性質も明らかになるだろう。今回ユダヤ思想学会に招聘されたゼエヴ・ハーヴェイ氏をはじめとする研究の蓄積と突き合わせることが今後の作業としては必要になる。この作業は、哲学がもつヨーロッパ的偏差を相対化する作業でもあり、CPAGの比較思想分析の作業にもユダヤ思想の側から貢献することができるだろう。図らずもCPAGの分析作業との接点も浮き彫りになった。当日コメントをしてくださった会員の方々に感謝したい。

(報告:馬場)